
ソーロンよりビアック(Biak)へ約2時間のフライト。
ビアックは太平洋戦争の時は激戦地になった所で、時間をさいて見に行った。
大きな洞窟があり、日本兵が3千人戦死したとか。洞窟は緑の苔がビッシリと生え、
大きなビルもスッポリと入るかと思うほど大きく
、天井からポタポタ落ちる水滴の音が反響して、鬼気迫るようであった。
![]() |
この地に立つ我が身の幸せに 過去の尊い犠牲を痛感する |
近くの森の中には不発の砲弾や速射砲の残骸が多く残っており、遺留品を展示した小屋の中には、日本酒の一升びんや何発もの弾痕のある水筒があった。そうした生々しい遺品の数々を見ているうちに、私は目頭が熱くなってくるのを感じた。 かつての敵国人であったアメリカ人のモニカを中にして手を握り合って厳粛な気持ちで記念写真を撮ったが、今日の日本の繁栄は多くの尊い犠牲の上にあることを痛感すると動じに、このような旅行のできる私たちの幸せをつくづくありがたく思った。 ビアックのホテルに重い荷物を預け、できるだけの軽装備で、イリアンの首都ジャイヤプラ(Jayapura)行きの飛行機に乗る。いよいよ待望の本島内部だ。ジャイヤプラからはチャーターした4人乗りの小型機を使うので、センタニ(Sentani)空港の近くのホテルをとる。 |
![]() ■移動はこのライトバンで未鋪装の道なき道を行くのだ |
![]() ■大平洋戦争当時、ニューギニアは大激戦地だった。当時を偲ばせるビアックの戦跡地 |
ホテルと言っても”タコ部屋”みたいなもので、4帖くらいの部屋に畳1枚くらいの木製ベッドが二つとオモチャのような扇風機は1台ある。便所とシャワー室は一緒になっており(シャワー室といってもシャワーは作動しない)1m立方のタイルの水ガメからひしゃくで水をすくって体にかける(マンディ方式)用便後も同じようにひしゃくで水をすくって流す。ニューギニアのホテルには風呂はなく、ほとんどがこのスタイルだそうだ。朝、顔を洗う時も同じである。すこぶるシンプルだがジャングル生活をした我々には、それでも極楽のようにありがたい。 網戸の破れに新聞紙をまるめてつめ込み、持参の蚊取り線香壁を壁にかけて蚊に対する予防を慎重に行う。ドクター・リーのマラリアの話の怖さが身にしみているのだ。 |
翌日ハイコ珍しく6時出発でいいという。明日は、このセンタニ湖周辺の川の調査を一日かけてやり、夜は空軍司令官自宅へ訪問し、小型機による内陸部へのフライトの許可をもらうのだという。許可もなく国境の近くを小型機で飛んだりすると、戦闘機にスクランブルされ、撃ち落とされる危険があるのだ。 我々がチャーターした小型機はミッショナリー所属(キリスト教会)のものである。この教会の宣教師がパイロットの免許を持っており、布教のため、内陸に定期的に入っていくのだ。我々はそれに便乗することになっている。探検家よりももっと勇敢で、生命の危険も考えず、布教のために奥地に入っていくのが彼らだそうで、そのため随分と今まで犠牲も出たという。 しかし、ハイコは「教会もいろいろ宗派があり、それぞれが競って高地のダニ族の村に教会を建てている。前回自分の行った所では、村の住人は15人ほどしかいないのにそれぞれ宗派の異なった教会が三つも建っていた」と笑いながら言っていた。 |
![]() ■ブレハ氏と別れて我々は秘境・タナトラジャに向った。ここに移り住む前は漁労民族だったことをうかがわせる舟型をした住居。ちなみにここは標高1,000mの地点だ。 |
![]() |
その夜は苦労して空軍司令官の承諾をもらうことができたが、司令は内陸に入るにはインドネシア、インテリジェンス・ポリスセンター(CIA)のOKを取る必要があるという。それからまた夜中にポリスセンターを訪れ、明朝のフライトの許可をくれるよう陳情するが、我々の計画を聞くと一斉に表情を固くして、厳しい顔で不可能だという。あまり詳しく理由を言いたがらないが、どうやら政治問題があるらしい。あとでわかったことだが、今、内陸の高地はイリアンジャヤの独立運動が盛り上がっており、その対策にCIAのスタッフはピリピリしていたらしい。 ■ここでは今も風葬の習慣がある。住民は家族の絆を特に大切にする。 |
ニューギニアの南半分パプアニューギニアは太平洋戦争以後オーストラリアから独立し、経済成長も順調で生活レベルも近代化されてきたらしい。それが大きな独立の刺激となっているという。そんな所へ日独米の連合パーティが大きな荷物を背負い込んで、普通一般の人が行かないような奥地ばかり選んで小型機で行こうとしたのだから、疑われても仕方がなかったこもしれない。時期が悪かったのだ。美人のモニカが女性の特技の泣き落とし戦法でくどくが、ラチがあかない。最終的に明朝8時までに上司の出勤を待って返事をするということになり、真夜中の2時過ぎホテルに帰りついた。 |
![]() ■現地のバザール |
探索行、最後のトラブルに内陸高地の調査は断念
![]() ■珍種の蝶も… |
その翌朝のことである。窓の外が騒がしい。みるとピストルを持ったポリが3名ほどと私服のCIAが3名ほど、それに昨日のモスキーターという運転手、ガイドのダニ族のお兄ちゃん、その他大勢の人が大きな声でハイコとガタガタやっている。ポリスはハイコに彼の持っていたジュラルミンケースの中身を見せろ、と要求している。ハイコはすっかり興奮して、「我々はドイツ人とアメリカ人と日本人だ。君らにそんな命令をする権限はない。もし開けるとというなら、それぞれの大使館に連絡する。大きな国際問題となるぞ」とキンキン声を張り上げて抗議している。 どうもハイコは、興奮すると声のキーがオクターブ上がるみたいだ。さすがのポリも手をかけて調べるとやばいと思ったのか、戦法を変えて、”モスキーター”と”ダニのお兄ちゃん”にバトンタッチした。モスキーターには昨日は飯もロクに食べさせず、おまけにまだチャーターした車の料金を払っていないらしい。「ただ乗りだ」とワメいている。ダニの兄ちゃんは、「昨日の夜、真夜中に開いているレストランをみつけ、日本のダンナが皆腹減ってるだろうから、ここで遅い晩飯にしようといってくれたのに、貴方二人は車から降りなかった。仕方なしに日本のダンナも飯を食べるのをやめてホテルに帰り、とうとう晩飯なしだ、貴方の責任だ、何故だ、何故だ!」とワメいていある。よく食べ物の恨みは恐ろしいというが本当にその通り、さすがにハイコもだんまりしていた。 |
とにかくポリさんは、本署まで来てくれというが、往復の時間はかかるし、一日仕事になってしまう。仕方がないので、小型機による内陸高地の調査は断念することにする。その代わりに、せめてツーリストに許されている高地の”ワメナ”(Wamena)に行こうということで計画を変更し、ワメナ行きの一日一便しかない飛行機キップを買うが、これもまたエンジントラブルで飛ばず(一日中飛行場で待たされた)、その翌日はやっと飛行機に乗り込んでヤレヤレと思ったのもつかの間、天候悪化でワメナ上空から、センタニ空港へUターンしてしまった。本当に情けないほどついていなかった。 「今回は残念だが、来年はきっとこの内陸高地の探訪だけに10日間かけて再度トライしよう。そしてあの幻の淡水サメの湖へも行こう。その準備として、帰国したらすぐ大使館に働きかけて許可を得よう」とハイコと話し合った。 |
![]() ■実はこれ、現地の便所なのだ |
帰りのジェット機は、訪れることのできなかったワメナ上空を飛び、赤道直下にありながら毎年雪が白く光る5千m級の山々を越え、そしてまた南海岸のあの人喰い人種アスマット族の住む大湿地帯を後に、再来を期しながら次の目的地スワラジ島へ飛び立って行った。 それにしてもいろいろなことに巻き込まれ、目的の半分も達成できなかった不本意な旅行であったが、ニューギニアの原地の人々の外見からは想像できない、優しくて人なつっこい、素朴で温かい性格にすっかり魅了されてしまった。 この旅行中、世界中どこでもいるという日本人には一度も会わなかったが、それだけ日本人にとってニューギニアとは、”近くて遠い国”なんだということを実感した。 ++++ END++++
|
![]() ■原住民母子の水浴び風景 |
![]() ■原住民の子供は我々が捨てた |