text & photo/神畑重三 協力/神畑養魚(株)
+++ イリアン・ジャヤ/2 Vol.9 +++
「まだ見ぬ部族が潜む魔境(マンボラモ)を行く」
日本から「遠くて、そして遠い国」イリアンジャヤの魔境に日本人で初めて訪れる。いったいどんな冒険と出会いが待ち受けているのだろうか・・・。 |
座席確保はほとんどハイジャック
水上と二人でショッピングに出掛けた。人々はすこぶる友好的で、「スラマットレー(こんにちは)」と声をかけると、黒い顔から白い歯がこぼれるので、笑顔ということがわかる。
「いくら腹が減っても、もう道端のラーメンは絶対に食わんぞ」とぼやきながら、市場や店をひやかして歩く。旅行ではこうした自由なひとときがいちばん楽しい。ある店先で飼っているニワトリが「コケコッコー」と鳴くと、それをインコが真似て「コケコッコー」と鳴くのには大笑いさせられた。
ホテルにアスマット族の彫刻が置いてあったので、もしやと思いはしたが、町の外れの民芸骨董店で長いあいだ探し求めていた木彫りを発見できた。夢中で品定めして、約10点ほど買い求めた。値段はタダみたいに安い。アスマット族は人食い人種として有名だが、もう一つ彼らを有名にしているのは木彫りで、その技術水準は世界的に評価が高く、コレクターの垂涎の的になっている。足を怪我したハイコのために”アイアンウッド”という固い木に彫刻を施した杖も買った。思わぬ掘出物にルンルン気分でホテルに帰ったが、ハイコの足は調子がいちだんと悪化したみたいだ。魚用のビニール袋に氷を入れて足を冷やしてやると、いくぶん痛みが柔らいだようである。
夕方、現地人がグリーン・パイソン(蛇)や極楽鳥など、いろんな生き物を持ってきて見せてくれた。誰も見物料を払わないが、さりとてチップも請求するわけでもない。商売のはずだが、観光ずれしていないので愉快になる。
翌早朝、ジャカルタ本社から指名されたパイロットが会いに来た。結論は残念ながら飛行は中止だ。3月から5月の間なら飛べそうだが、いまは最も天候の悪い季節だと言う。何人かのパイロット仲間にも聞いたが、ジャモア湖近くを飛んだ者は誰もいないという。それだけ人に知られていない秘境だろうし、だからこそ淡水ザメが生き残っているんだろうと思ったりもする。メラウケには一機だけハイドロ・プレーン(水上機)があるという朗報を得たので、来年4月に再度この地に来てトライするよていだから、次回の協力を依頼してパイロットと別れた。
日本から予約したティミカからの帰り便は翌日だが、ヘリが飛ばないのであれば、もはやここに滞在する意味もないし、その日の便で帰ろうということに決まった。予約はしていないが、とにかく空港まで出ることにした。もちろん空席などあろうはずもないが、名優のハイコが足の傷を見せて、「一刻も早く手術しないと命にかかわるとドクターに言われた」などと威したりすかしたりして、なんとかビアクまでの席を手にいれることができた。「ほんま、ようやるわ、この男」
満席の機がビアク空港に着いたが、ラウンド・チケットを持ってはいても、ここからジャカルタに行くフライトの予約はしていない。そこでハイコがわれわれに作戦を伝授する。私と水上は係員から何を言われてもシートを動かずに座席にしがみついて死守すること、パオラにはカートが来てビアク止まりのわれわれの荷物を降ろそうとしても、貨物室から絶対に降ろさせるなと指示している。ハイコは空港オフィスで席の交渉をするという作戦だ。
ハイコが200m以上もある空港じむしょまで一度も止まらず一本足のけんけん飛びでぴょんぴょん飛び跳ねていった。そのもの凄い体力と気力にただただあきれ果て、水上と顔を見合わせながら口をあんぐりさせて眺めていた。体格ではハイコに優るとも劣らない水上が、あとでけんけん飛びを試してみたら、彼の方がうーんと若いのに10mと続かなかった。
ハイコのごり押しが通って、ありがたいことに帰りの席が確保できた。ウジュン・パンダンで機を乗り継ぎ、ジャカルタに着いたときは8時過ぎで、シンガポール行きの最終便は出発したあとだった。仕方なくここで一泊したあと、私は翌朝シンガポールへ向かった。
日本を出てから約20日間のとてつもなく長くてハードな旅ではあったが、果てしないジャングルの大自然に偉大な神の摂理を感じたことが私にとって生涯忘れることのできない特筆すべき1ページとして記憶のアルバム帳に深く刻み込まれた。
ハイコから足の傷は予想以上に重傷で、快方に向かってはいるが、ギブスをはめた生活が長く続いているという便りがあった。水上は帰国後にマラリアが発病して10日間入院したが、いまは全快して職場に復帰している。大自然に限りない憧れと挑戦する心意気を持つ彼にとって、マラリアは1つの勲章かもしれない。